画商のTさんに、Hさんを通さずに私の作品を売買して頂けないか、と書いた私のメールへの返事は、一週間後にこちらに届いたのだが、一日千秋の思いでやきもきしながら待っていたので、この一週間が随分長く感じられたものだった。
届いたのがどういう返事かは、このメールの文章そのものをここに掲載して、読者の皆様に読んで頂ければ、何よりも手っ取り早いと思うのだが、現在その承諾をTさんから得るのはほとんど不可能である。
それ故、取りあえず、この「一読して頭の中が空っぽになるほどのショックを私に与えた」Tさんのメールはどう言う内容だったかを、かいつまんで説明しようと思う。
まず最初に、TさんにとってHさんは大切な取引先である故、現在のところ商道徳上の理由からTさんが私(kenwan)と直接取引するつもりはないのでご理解下さい、という風に書かれてあった。
これに関しては「あぁ、やっぱり・・・」という感じで、あらかじめ予測出来た事ながら、やはり落胆したが大した事ではなかった。
私の頭を空っぽにしたのは、この次の文章である。
kenwan様の作品の売上が落ちている原因として、以下の理由が考えられますので、再度お考えいただけると幸いに存じます、と有り・・・
1)以前の描き方に較べて現在の描き方は、今のところ日本の油彩画ファンの嗜好には合っていない。
2)従って、作品の売上が減っているのは、これまで私の作品を購入したお客様の間での現在の画風のの評判が芳しくなく、その結果としてリピート購入につながらず、それゆえ取り扱い業者が減少している。
3)収入の問題でお悩みでしたら、再びHさんと話し合った上でkenwan様なりの選択、決断をすべきである。
かいつまんだ説明にはなっていないが、ほぼこういう事が書いてあった。
つまりは言外に、以前の描き方に戻さなければ、売れませんし売りません、と言っている事になる訳で、まさにこの部分で私の頭は空っぽになってしまったのである。
「Tさん、あれは一体なんだったんだ!」と私は心の中で叫んだ。
つい何ヶ月か前、大阪の個展会場にて、私の画風の変化に関する話を熱心に聞いて下さり、ロックギタリストのジェフ・ベックになぞらえて共感の言葉を熱く語ってくれたTさんが、こういう事をどうして書けるのか?
しかも上記の文章で、売上が落ちている原因として、私の現在の描き方が今のところ日本の油彩画ファンの嗜好に合っていない、それ故これまで私の作品を購入したお客様のリピート購入につながらず、取り扱い業者が減少している、とあるが、それはまったく実情と合ってはいないではないか。
現に今までで最高の売上を上げた2006年には、その大部分の作品が新しい描き方の作品なのだ。
混乱しながらも私はこのメールを再読三読し、不可解な事に気がついた。
と言うのも、上記した、私の絵の売り上げ減少の原因に関する数行の冷静な論理的文体の文章のその後に、
「先生のお気持ちはお察しいたします。
以前の画風に戻すことは有り得ないのでしょうね?」
などと書いてあるのである、変ではないか。
これ以後このメールの文章の終わりまでは、上記の冷徹で分析的な文章とはまったくトーンの違う、幾分慰めてくれているような文章なのである。
このTさんのメールは、間違いなく二人の別な人間の書いた文章をつなぎ合わせたものだ、と私は考えた。
一人はいうまでもなくTさん、そしてもう一人はHさんである。
2004年の秋からコンピュータを我が家に導入して以来、Hさんとは頻繁にメールのやり取りをしていて、Hさんのメールの文章その他で、件の冷静な論理的文体の文章にはよくお目にかかっている事に私は気がついたのだった。
このメールの約一ヶ月前の2008年の2月、TさんはHさんを通して池袋東武百貨店での絵画展に私の作品を20点ほど出品し、3点の売上げをあげて下さったのだが、Hさんからのその売上の報告のメールに、「展覧会の内容その他についてはT氏よりkenwanさんにメールにて報告いたしますとの事です。」と書いてあり、おそらくこのTさんが送るはずの報告のメールに、HさんはHさんが起草した例の文章を書き加えるようTさんに依頼していたのではないか?
それ故、Tさんとしては大阪であれほど私の画風の変化に賛同の意を表したにもかかわらず、Hさんの文章のような意見を自分のメールとして送るのは如何なものかと、考えあぐねていたに違いない。
私もTさんから来るはずのメールが、なかなか来ないので、おかしいと思っていたのだが、私の方から別のメールを送り、あまつさえご自宅に電話まで入れたものだから、とうとうTさんは例のHさんの文章入りのメールを出さざるを得なくなった、という事だと私は思う。
もちろんこの私の推理の裏付けなど、今の私には取り様がないが、これはこれでほぼ間違いはないのではないかと今でも考えている。
コンピュータのディスプレーに映されたTさんのメールを何度も読みながら、私はここまでの推論に至った訳だが、それと同時に抑えられない怒りが私の胸の中で荒れ狂っていた。
そして、このメールを繰り返して読めば読むほど、Hさんと良く話し合って以前の画風に戻そう、などという気持ちには決してなれそうもないと感じていた。
今、改めて考えてみると、あのHさんが書いたと思われる文章が、やはり良くなかったのではないか。
あまりにも冷たい文章だし責任を私だけに押し付けているような印象があり、あれから一年経った今、改めて読んでもまだ腹が立つ。
いずれにせよ、メールというのは便利なものではあるが、このようにメールのみに頼ったコミュニケーションは、時には大きな危険が伴う、という事を肝に銘じなければならない。
また、ここまでの記述はあくまで私の立場から見た姿に過ぎず、あちらの立場から見てこれらを叙述すれば、まったく違った事になるかもしれない、という事を読者の方々も銘記していただきたいと思う。
ここで話はがらっと変わるが、その昔、私はとある巨大宗教団体の熱心な信者であった。
と言うのも、私が三才の時に母がある人に勧められてこの宗教団体に入信し、私も否応なく入信させられたのである。
小学生になる頃には朝晩の勤行をやるように母から強制され、最初はとてもいやだったが、何せ私の周りは母を含めそういう人ばかりだったので、おのずと朝晩欠かさずやるようになり、中学校の入学に際しては、東京の西郊にあるこの団体が経営する中高一貫校に入学し、ますます熱心さに磨きがかかった。
しかし、大学を卒業しイタリアに行く頃にはこの信心に幾分懐疑的になり、色々な人との出会いや様々な出来事の影響から、イタリアから帰って来た頃には、私の心はすっかりこの宗教の信心からは離れてしまっていた。
そして、未だに熱心な信者だった母とは、この信心とは全く無関係な現在の妻との結婚に際して、今思い出しても気が滅入るような様々な葛藤があったのである。
その妻が、今回のTさんのメールを読み、心配のあまり、何とか折り合いをつけられないものか、Hさんの意向に従って以前の描き方に戻れないものかと、私に聞いて来た。
しかし、その時に私が言えた事は、以前の描き方に戻すという事は、まるで、とうの昔に捨てたはずのあの信心にまた戻れと言われているのとまったく同じ気持ち悪さなのだ、という事であった。
私がそう言うと、妻は一瞬にして私の気持ちをすべて理解してくれたようだった。
「そう、それならしょうがないわね・・・」妻はそう言葉に出しては言わなかったが、深い疲れにも似た表情を宿したその顔は、まさにそう物語っているようだった。
つづく
三浦賢一回顧展 その五
1994年9月
これは昔のブログに一度掲載したものだが、娘が生まれて3日目に描いたスケッチである。
1996年3月
こちらは一才半の頃。
両頬に小さいアトピーの皮膚炎が出ていた頃だけど、それは描かなかった。