昨年(2008年)10月、妻の実家の移転にともない、預けてあった私達の荷物を選別してウィーンに送らねばならなくなった。
その仕事を果たすべく、私は一人で一週間余り妻の実家に帰国したのである。
ちなみに、このブログの「回顧展」に掲載した作品はその折にウィーンに持って帰って来たものだ。
また、この短い帰国を利用して、2009年から新たに私の作品を扱って下さることになったO画廊の責任者の方、それから一度お会いして話をしたいとおっしゃってこられたYさん、このお二人に会うことが出来た。
このO画廊とは、前回触れたニューヨーク在住の画家
大野廣子さんの紹介で何度か電話でお話しした美術業界のある方が、この画廊の責任者に推薦して下さったのである。
この時初めてお会いしたO画廊の責任者の方は、以前私の作品をご覧になった事があるという事であった。
この方からは、昨今の美術業界の日々悪化する状況を伺い、私としても何とか売れる作品を頑張って描きます、と決意を述べるしかなかった。
とにかく、O画廊は他の多くの画家も扱っておられるので、今までのようにはいかないが、ここのような大手のギャラリーとつながりが持てたことは私にとって大きなアドバンテージだったと思う。
この後、関西から東京に来られたYさんにもお会いした。
Yさんは、私の現在の状況に対して理解と同情を示され、自分はこの業界には全くの門外漢ではあるが、何とか私に援助の手を差し伸べたい、ついては、こういうことはこれ一回きりではあるが、2009年の早い時期に大阪と東京で一度づつ個展を開き、Yさんの知友の方々に私の作品を勧めるつもりであるという事であった。
このような事は普通に考えても極めて希な事で、私はびっくりしてしまった。
事の意外な成り行きに呆然としながらも、私はこのYさんの有り難い申し出を心からお受けしたのであった。
さらにもう一つ、以前のこの連載に書いた、とある個展会場で偶然お会いした、妻の勤めている日本茶の店によくいらっしゃるオーストリア人男性と日本人女性のご夫婦、Tご夫妻から、ご夫妻の友人でもあるドイツのカールスルーエのギャラリスト、J女史を紹介していただいたのだ。
Tご夫妻の、ご主人は俳優並びに演出家として、奥様もオペラ歌手として長くベルリンやドイツ国内の各地で活躍なさった方々で、現在は悠々自適の年金生活をなさっている。
そして2008年の末頃、Tご夫妻を通じて、私の今までの作品の写真をJ女史に見て頂いたのだが、ドイツ国内やヨーロッパが活動の場である彼女にとって、私の今までの作品は技術的には素晴らしいものではあるが、あまりにもヨーロッパ的すぎるようであった。
Tご夫妻を通じて私達に託されたJ女史のお手紙には、作者である私の日本人としてのアイデンティティをもっと強く感じさせる絵を、出来ることなら見てみたい、というような事が書かれてあった。
Tご夫妻に翻訳してもらったその手紙を読んだ時、自分は何故か、そう言うならやってみようじゃないか、という気になり、その時とっさに浮かんだあるイメージを元に、と言うよりもそのイメージ通りの絵を何とか苦心して一枚仕上げ、その絵の写真をTご夫妻を通じてJ女史に見てもらった。
すると、しばらくしてJ女史から、その作品に対する激賞と言っても良いような文章のお手紙が届いた。
これが絵描きの性(さが)というもので、今まで描いたことのない傾向の作品ゆえ幾分不本意な思いで描き上げたものではあったのだが、あんなに誉められるとやはり非常にうれしくなり、私はさらに同傾向の作品をもう一枚仕上げたのであった。
こうして、私達にとって波乱に満ちた2008年は、何とか辛うじて収束に向かいつつ終わりを迎えたのであった。
2009年の一月に、まず私はカールスルーエのJ女史からの要請で、作品二点を女史宛に郵送した。
そして二月から三月にかけて、Yさんの計画された二度の個展が開催される事になり、私は一時帰国する事になった。
全く美術業界とは無関係な業種で長年事業を展開されて来たYさんが、本当に私の個展を企画し開催していただけるのだろうか、と密かに危惧していたのだが、「仕事ができる人」の行動力はやはり並みではないと、舌を巻かざるを得なかった。
個展会場の手配、額縁の調達、案内状の印刷と発送など、Yさんはその幅広い人脈を駆使して、ほとんど私の手を煩わせることなくすべてをクリアして、ウィーン式に慣れてしまった私ののんびりした気持ちを叱咤激励しながら個展を準備して下さったのである。
最初は、私がHさんに委託し、保管していただいている40点余りの私の作品をこちらに返還していただくついでに、それらの作品に付いている額縁を一時的にHさんからお借りして、額縁付きのその40点余りの作品でもって、Yさんに企画していただいた個展に出品しようと考えていた。
しかし、Hさんが誂えて下さったそれらの額縁を、絵画の取り扱いに関して素人であるYさんに預けることにHさんが難色を示し、この計画は取りやめになってしまい、結局その当時私の手元にあった14点の作品だけで個展を行う事になった。
この二度の個展にあわせて私は3週間の一時帰国をしたのだが、個展会場での作品の売上は予想通り皆無であった。
しかし、14点という少ない点数が幸いして、個展に出品したすべての作品をYさんに委託販売していただく事になったのである。
ともあれ、この個展に合わせての日本滞在は、私にとって非常に刺激に満ちた今までになく学ぶ事の多い旅であったと言える。
こういう事でもなければ生涯会う事もなかったような人達と縁を結べた、と思う。
「縁」と言うのは不思議なものだなぁ、とつくづく思う。
自分勝手で頭の悪い私ではあるが、人並みに生きて来て結構な歳になってみると、人間の世の中というのは、実は人と人との「縁」や「相性」という理屈では割り切れない不思議なものが成り立たせているのではないかと思うようになった。
Yさんと私との関係なども、昨年以前には想像すら出来ないものだったが、私達が一番苦しかった時に縁を結び、苦労を惜しまず援助して下さった事は、本当に有り難い事で、お礼の言葉もない。
ところで、Hさんに保管されていた40点余りの作品は額縁から外され、何点かの捲りの作品を除いてO画廊に移譲されることになった。
その中で一点、十歳の頃の私の娘を描いた小品の肖像が有り、他の人に売れる事もないだろうし私達家族にとって思い出のある作品なので、ウィーンに送って下さるようにHさんにメールで頼んだ。
一ヶ月ほどして届いた私の娘の肖像は、驚くほど丁寧な梱包がなされていて、私は改めてHさんと言う一人の画商の誠意のようなものを、最後になって感じさせられた。
同じ事は、この後の一時帰国の際に、O画廊で「捲り」(木枠から外されて巻いてある)の作品を受け取った時にもやはり感じた。
私の作品を丁寧に大切に扱って下さっていたその様子が窺えて、色々な事があったけれど、十年に渡ってふつつかな私と付き合って下さったHさんには、やはり強い感謝の念を感じざるを得なかった。
さて、この長い話もそろそろ終わりにしよう。
とは言え、書き残してしまった事は実はまだまだ沢山ある。
多くの友人知人が私達に示してくれた温かい援助や励ましは、すべてをここには書ききれなかったのだが、それらに対しても私達はいくら感謝してもし足りない思いで一杯である。
今現在の私と私の家族の生活は、経済的には未だに順風満帆とは言い難いものであるが、昨年の苦しい時期を家族皆で協力して乗り越えた自信が、現在の私達の生活に落ち着きを与えてくれていると思う。
この先、まだ色々な事があるのかもしれないが、私は出来る限り長生きをして、さらに良い絵を描いて行きたいと考えている。
おわり
三浦賢一回顧展 その六
2004年4月 P3号 題名「無心」
Hさんから返却していただいた、娘が十歳の頃の肖像画がこれである。
モデル料は一回50セントだったと記憶している。
日頃ジッとただ座っている事が一番苦手な子だったが、本を読んでいる時は驚くほど集中して、微動だにしない事もある。
この表情はそういう時のものである。
私としてはなにより、十歳の娘の顔の皮膚の表面に密生する「うぶ毛」が描きたかったのだが、そこの所では少々不満を残してしまったように思う。