先々週の事だったが、「乖離 その五」の文章をこのブログにアップロードする時、いつものようにその前に妻にあらかじめ読んでもらった。
そうすると、その最後の文章の、
「そう、それならしょうがないわね・・・」妻はそう言葉に出しては言わなかったが、深い疲れにも似た表情を宿したその顔は、まさにそう物語っているようだった。
という所を読んだ後、妻がこう言った。
「私、本当にそんな顔してたの?」
私がそうだと言うと、ほんの少し憮然としたようだったが、しばらくの無言の後、
「この時に、私は腹をくくったのよね・・・・」
とも言った。
「成る程なぁ・・・」と私は思った。
こういうところで私は、何となく妻を尊敬してしまう。
ひるがえって、自分はどうだったのだろうか、いつ「腹をくくった」のだろうか?
ちょうど一年前のことを思い出してみても、私にとってのそういう覚悟の瞬間というのは思い出せないのだ。
その頃、自分の胸の中にあったのは、ただひたすら嫌悪感と怒りだったような気がしている。
それはともかく、Tさんのメールが届いてから6日後、私は決心して長文のメールを書いてHさんに送った。
読者の方々は、何故Hさんに?と思われるかも知らないが、その時の私はそれが最も妥当だと思われたのである。
以下がそのメールの文章である。
H 様
先日、池袋東武の絵画市の結果について、Tさんから、なかなか連絡がなく、こちらから問い合わせましたところ、メールを頂戴いたしました。
その中に、以下の文章がありました。
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> この項 省略
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ここに書かれた事柄は、昨年大阪でHさんにお会いした折りに、Hさんからお話しいただいた事ともぴったり符合いたしますし、
誠にお心のこもった丁寧なアドバイスに感謝しなければならないのだと思います。
しかし、実はこの文章を読んで、私はかなり落ち込んでしまいました。
ショックを受けた、という言葉が妥当かもしれません。
と言うのも、この文章では、言外に以前の描き方に戻すべきだと勧められていると私は思うのですが、正直に書かせて頂くならば、以前の画風に戻す、という事は、私にとって強いて言えば、遠の昔に捨ててしまったXXXXの信仰に再び戻れ、と強要されているのと全く同じような事で、精神的にも生理的にも全く拒否反応しか起こらない事柄なのです。
もちろん、私の十七年間の画家としての歩みは、Hさんをはじめとして大勢の画商さんやそのお客さんに支えられてここまでやって来れましたし、そういう方々には幾ら感謝してもし足りないと思っています。
そして私自身も、どの作品も精一杯命がけで描いてきましたので、手を抜くなどというのは、全く思いもよらない事でしたし、永年にわたって自分の作品を少しでも良くしようと、Hさんからのアドヴァイスなども聞き入れながら、自分なりに一生懸命考えて、五十歳を過ぎて漸く到達したのが今の私の画風です。
それ故、今の画風を止めて前の画風に戻るという事は、今までの私の絵描きとしての努力を全て否定されているようにしか感じられないのです。
そういう訳で、現在私や私の家族が経済的苦境にあるからと言って、今の私の画風を以前のものに戻すつもりは、私には全くありません。
では、現在の窮状を脱するためにはどうすれば良いのか、を自分なりに考えたのですが、名案など浮かぶはずもありません。
しかし、まずは、今までの私が享受して来た、Hさんの手厚い御援助から離れ、ここヨーロッパであれ、日本であれ、とにかく現在の私の作品を愛して下さる方を、自らの手で探し出す努力をし、そして、もしそれが叶わないのであれば、それは画家という職業を選択した私の落ち度であるが故に、画家を廃業し他の職業につき、私達親子三人の生活の糧を求めるべきではないのか、と考えるに至りました。
今まで心からお世話して下さり、苦楽を共にして下さったHさんと、こういう形で袂を分かつ事になるとは、思っても見なかった事で、辛く心苦しい気持で一杯です。
それに、Hさんからしてみれば、非常に手前勝手な決断であり、かなり腹立たしく思われる事でしょう。
どうかお許し下さい。
今までのHさんと私の関係は、今年一杯という事にし、今年予定して下さった静岡松坂屋と名古屋の松坂屋の個展は、予定通りお願いしたいと思います。
幸い、委託作品はこちらの確認ですと現在48点ありますので、この二回の個展にはそれでお願いできるのではないでしょうか。
それ等に売れ残った委託作品は、二回の個展の後に全て私の方に返却して頂くつもりでおります。
長い間大変お世話になり、本当に有り難うございました。
それでは、これにて失礼いたします。
kenwan
以上である。
今読んでみると、何とも息せき切った文章のメールだと思う。
しかし、あの時私が感じていた事、私がHさんに伝えたいと思っていた事は、きちんと伝えたつもりである。
今でもそう思う。
とは言え、あらかじめ何かしらのセーフティーネットのような物も用意せず、画商のHさんとの関係をほとんどこちらから断ち切るような事を書いて送ってしまった訳で、メールにもあるが、Hさんは確かに「腹立たしく思われ」た事だろう。
ここまでする必要があったのか?と思われる方もいるのではないだろうか。
しかし、私としてはこうするより他なかった、としか言いようがない。
自分自身をゴッホやレンブラントのような、私の尊敬する「悲劇の芸術家」として演出したかったのだろうか?
だとしたら、その代償はあまりに大きかった。
生来楽天的な性格の私はそれまで「鬱」など一生縁がないと高をくくっていたのだが、この時初めて心身にわたる激しい落ち込みを経験した。
Hさんは結局私を理解して下さらなかったという絶望感、「五十二歳にもなってこんな思いをするなんて・・・」という情けない思い、妻と娘に対する責任という重荷、その他の諸々の思いの総和が私に押し寄せ苦しめたのである。
こういう中で時として私は、古い建物の6階にある我が家の窓から飛び降りてしまいたい衝動に駆られる事があった。
しかし、そうやって死ぬよりも死ぬ気でならば何でも出来るはずだ、と自らを鼓舞し、とにかく私がメールに書いたように、いざ画家を廃業した時に一家三人野垂れ死にという事態だけは避けるべく、懇意にさせていただいているウィーン随一の和食レストランのシェフに電話をかけた。
シェフに事のあらましを語り、「いざとなったら皿洗いでよろしいですから、雇っていただけませんでしょうか?」と尋ねたところ、「いつでもいらっしゃい。」とおっしゃってくださったのだった。
この時のシェフの一言は本当に有り難かった。
強いて言えば、私が「腹をくくった」のはこの時なのかもしれない。
つづく