1999年から2007年まで、Hさんは二年に一度、かならず渋谷東急本店の美術画廊で私の個展を開催して下さったのだが、その折には毎回航空運賃や宿泊費をHさんが負担し、会期中の一週間は私は帰国して会場に詰められるように手配して下さるのが通例であった。
これは本当に有り難い事で、思いっきり地味な日常生活を送る私にとって、それは二年に一度のお祭りと言っても過言ではなかった。
多くの旧友との再会や私の作品を購入して下さる方々との会話に花が咲き、楽しい時間を過ごす事も多いのだが、時として入場者がとぎれ会場が閑散としている折りなどに、Hさんと私は陳列されている作品の前などで、その作品の事などについて話をしたりしたものだった。
2005年の渋谷での個展のそういう時に、2004年6月からの私の作品の描き方の変化を説明してみた。
Hさんも、私の最近の作品に現れたその微妙な変化に気付いておられた様子であったが、その事について多くは語られなかった。
一つだけおっしゃった事は、それまでのくっきりした輪郭線ではない、幾分ぼやかしたような不明瞭に見える輪郭線に対する疑念のような不満のような言葉であった。
それ以外の事は、Hさんは言うべき事を直接私に向かって言うのを幾分はばかっておられるように、私には感じられた。
私としてはこの描き方の変化には必然性を感じていたし、自信もあったので、Hさんも必ず分かって下さると楽観していた。
現にこの新しい傾向の作品はこの2005年の個展でもすでに何点か売れていたし、この後2006年には私の作品は今までで最高額の売上を上げ、その多くが2004年6月以降に描かれた新しい傾向の作品であった事もあり、私の新しい描き方に対する自信は益々大きくなって行ったのである。
しかしながら、2007年は私の楽観的な予想とは裏腹に、絵の売り上げは前年の約半分になってしまった。
その事で私の作品の進化に対する自信は揺らぐ事はなく、おそらくそれ以外の何らかの外的要因でこういう結果になったであろうと私は考えていた。
と言うのも、絵画など奢侈品の売上の多寡は、何よりも世の中の景気の動向に左右されるものだ。
大企業の宣伝費などと同じように、好景気の恩恵は一番最後まで廻って来ず、景気が少しでもかげりを見せれば最初に削られる。
私の作品の売上の、2006年と2007年のこの大きな違いは何より日本の景気の一時的なミニバブルとその急激な落ち込みと軌を一にしているのであろう。
もちろん言うまでもなく、画商のHさんもそう言う事は当然ご存知のはずだ。
しかし、画商という立場に立って言えば、それでも絵を売っていかねばならない。
絵を売らなければ、私のみならずHさんも生計が立ち行かないのである。
そう言う立場に立った時、私の画風の変化というものの印象は、私の立場とはまったく違った様相を呈していたに違いない。
今になってみればそう思う。
ところで話は変わるが、2007年の秋には渋谷東急本店での個展と大阪阿倍野近鉄百貨店での個展がほぼ同じ時期に有った。
渋谷での個展を企画するHさんと大阪阿倍野近鉄での個展を企画する京都の画商のTさんの、両者の意向としては、この二つの個展両方ともに作者の私が来場すべきだと思っておられたようだ。
しかし、渋谷での個展が10月初め、大阪での個展が10月末で、その間8日間の空きがあり、両方の個展に参加するためには三週間以上日本に滞在しなければならず、そんなに長くウィーンを留守にするのは事実上不可能であった。
そういう訳で、私の意向としていつものように渋谷の個展のみの参加を希望する、とHさんにメールで伝えたのだが、近鉄での個展を企画しているTさんの是非来て頂きたいという意向で、両方の個展への参加が無理なら大阪の個展のみの参加にして下さい、との返事がHさんから来たのであった。
そういう訳で、2007年の秋にはいつもと違って東京ではなく大阪の個展会場に詰める事になった。
ここら辺の事はこのブログの以前の記事
「大阪の旅」に詳しく書いておいたので、興味のある方はお読みいただきたい。
この個展を企画して下さったTさんとは、この時が初対面であったが、個展の会期中、機会あるごとに色々話をする事が出来た。
しかし、東京から駆けつけて下さったHさんとは、大阪での滞在が2日間だったこともあり、あまりじっくりと話をすることが出来なかった。
それにHさんからは、東京での個展の売り上げがわずか10号1点のみだったという、私にとってもショッキングなニュースがもたらされ、その事も影響していたのではないかと思うのだが、心なしかHさんは私に対して言葉少なで、いつもよりよそよそしい感じを漂わせていた。
私としては、この渋谷での個展の売上不振の原因は、何よりもまず景気の悪化によるものであろうが、それに加えて私が会場に居らず、お客様に作者である私自らが作品の解説をすることが出来なかった、という事も大きく影響していると思っていたのだが、Hさんはどうもそうでは無く私の画風の変化にその原因があると考えていたようだ。
とは言え大阪の個展会場では、画風の変化に対する私の自信を、おぼろげながらも感じているらしいHさんからは、ただ、以前にもおっしゃった、輪郭線が以前に較べて明確でなくなっている事ついて、もう一度考えて欲しいと、再びより強い調子で言われただけであった。
ウィーンに帰ってきた私は、Hさんのいつもよりよそよそしい態度に幾分の懸念は有ったものの、大阪の個展での様々な新しい友人との出会いの喜びなどに取り紛れてしまい、あっという間にその懸念は忘れてしまった。
今思うと、私は自分の作品の画風の変化やそれが私にもたらす周りの状況の変化に対して、余りにも楽観的にしか考えていなかったと思う。
ともあれ、私は再びいつもと変わりないウィーンの日常に戻り、制作の毎日が過ぎて行った。
そして2007年から2008年に日付が変わり、1月も半ばを過ぎた頃に、いつものようにHさんに新しい年(2008年)の個展や絵画市のスケジュールをメールで問い合わせてみた。
2002年から、Hさんは彼と取引のある他の画商さんを通じて毎年個展を5〜6回、日本各地の百貨店の美術画廊で開催していただいていたのだが、この時のHさんからの返事では、なぜか2008年は絵画展1回と個展2回だけになってしまったのである。
これでは私達は非常に困る。
2006年は個展及び絵画展を7回開催して今までで最高の売上高となり、これで少しは貯金が出来ると妻と共に喜び合っていたのもつかの間、2007年は6回の個展絵画展ながら、その売上は前年の約半分となってしまった。
2006年に稼いだお金は、2007年には生活費として総て消費してしまい、私達はかなり不安を感じていたのだが、2008年がこれでは再び私達はなけなしの貯金を食い潰していく生活にならざるを得ない。
Hさんには、これでは困る、非常に心配であるとメールでお伝えしたのだが、その事には何の返事もなかった。
窮余の策として、私は2007年の近鉄百貨店での個展で初めて知り合った画商のTさんに、Hさんを通さずに直接私の作品を取り扱って頂けないだろうか、という文面のメールを送ることにした。
前にも書いたがTさんとは大阪の個展の会期中によく話をする事が出来た。
Tさんと私の音楽の趣味が、幾分重なっている事や、Tさんの方が少し年下で同じ関西弁で話が出来る事などから、結構話し易い相手であったので、私は自分の作風の変化に対する強い思い入れも熱を込めて語り、聞いて下さったTさんは十分理解して下さっていると私は感じていた。
それ故、私の窮状を正直に吐露したメールの文章を読んで下さればきっとそれに応えてくれるものと期待していたのだが、その返事がなかなか来ないのである。
思いあまって、いただいた名刺に載っている電話番号にウィーンから電話をかけたが、ちょうど地方に出張中でいらっしゃらなかった。
しかし、私がメールを出してちょうど一週間後、ようやくTさんから返事のメールが届いた。
ところが、そのTさんの返事のメールは、一読して頭の中が空っぽになるほどのショックを私に与えたのであった。
つづく
三浦賢一 回顧展その四
2003年の4月末から10月の半ばまで、私としては珍しく6枚の風景画を描き上げた。
すべて現地制作である。
午前中は自宅で静物画を描き、昼食を済ませた後イーゼルと絵具箱キャンバスを担ぎ地下鉄やバスに乗り、主にウィーン旧市街の古風な街並を描きに行く毎日であった。
ところが、この年のヨーロッパの夏は歴史始まって以来の猛暑で、スイスのアルプス山脈の永久凍土すら溶け始め、そこに建物の基礎が打ち込まれている山頂のケーブルカーの駅舎に倒壊の危険があるとまで報じられるほどであった。
そんな事とは予想もしていなかった私が4月の終わりから描き始めた第一作目の風景画がこれである。
2003年5月 P8号 題名「シュテッフル」
題名の「シュテッフル」とは、ウィーンの象徴とも言われるシュテファン大聖堂の美しい尖塔の事で、ウィーンの旧市街の中ならどこに居ても建物の隙間から見えるその姿につけられた愛称である。
4月の25日から描き始め、5月に入ると強い日差しの暑い日が続いたが、時には低い雲のたれ込める薄ら寒い日もあったりした。
そんな日でも取りあえず描きに出かけたが、突然大粒の雹が強い風を伴って降って来て、あまりの事に呆然としていると、近所の人が傘を持って来てくれたりもした。
翌日も同じような天気だったので、今度は折り畳み傘を持参して描きに行った。
案の定、再び雹まじりの土砂降りの雨が降り出し、そんな中でも傘をさして描いていると、昨日傘を持って来てくれた奥さんが、うちに避難してはどうか、と言いに来てくれた。
それはいくら何でも申し訳ないので、丁重にお断わりした。
2003年5月 F8号 題名「昼下がり」
上の「シュテッフル」の次に描いたのがこれである。
すでに尋常ではない暑さの毎日で、麦わら帽が私の風景スケッチには欠かせないアイテムとなっていた。
現地に到着し絵を描き始めれば、自分の意識は絵に集中しているのでそんな事はまったく感じなかったのだが、スケッチの道具一式を担いで麦わら帽をかぶる私の姿は少々時代錯誤で、我ながらその姿で地下鉄やバスに乗るのはかなり恥ずかしかった。
ところで、この絵の左下には鳩が3羽、申し訳程度に描いてあるが、実際の鳩の数はこんなものではなかった。
ほぼ毎日ある時刻になると、この街では時折見かける事のある、半分壊れかけたような婆さんが、驚くほど大量のパン屑などの鳩の餌をビニール袋に入れてやって来る。
婆さんは一度にそれを噴水の周囲にどさっと撒き、それをめがけておびただしい数の鳩が周りから下りて来るのである。
この広場に椅子と机を出しているのは、画面に描いてあるカフェだけではなく、画面の外の左側には他のレストランの椅子と机も沢山出ていて、いつも大勢のお客さんが座っていた。
レストランやカフェの当事者はこのおびただしい鳩たちに相当困っていたようで、ある日、いつものように大きなビニール袋を担いでやって来た件の婆さんが、レストランのオーナーとおぼしき男性にもの凄い勢いで怒鳴りつけられ追い返されているのを、私は目撃したのであった。
以来、この鳩婆さんは二度と現れる事はなかった。
今でも散歩などの折りに、たまたまこの広場を通る事があると、私はあの婆さんの事を思い出す。
2003年6月 F6号 題名「夕暮れの道」
この絵は、観光名所としても有名な「グリーヒェンバイスル」の裏手の道を描いたもので、この小路の奥の突き当たりのピンク色の建物がレストランの入り口である。