美術史美術館(Kunst Histrisches Museum)はウィーンが世界に誇る美術館だ。
私にとっては市内に三軒ある行きつけの画材屋さんと共に、最も馴染み深い場所と言って良い。
19年間に一体何度ここに足を運んだ事か・・・・
11年前までの中道保守連立政権の頃は、オーストリア国内のすべての国立美術館や博物館の一年間有効の入場券が五千円程度で買えた。それゆえ、この頃には毎年正月にはこの券を買うのを恒例にして,しょっちゅうこの美術館に出かけたものだった。
気に入った一つの絵を三十分程ボーッと眺めて家に帰って来る、というような贅沢な事をよくしていた。
今でも自分の好きな絵の前に来るとどうしても離れられなくなって、その程度の時間は無心に眺めていたりする。
この美術館に来ているほとんどの人は国内外の観光客の人達で、時間にそんなに余裕が無いのは分かるが、まるで定点観測のように一箇所に立っている私から見ると、八割程度の人は皆、立ち止まらずに首だけを絵に向けて移動しながら見ているような気がする。
立ち止まって見ている人も、五分間同じ絵を見ている人となるとほとんど皆無だ。オーディオガイドを聞きながら絵を見ている人は最近増えたが、耳から入って来る情報を、ただひたすら確認点検しているような眼付きで皆絵を見ている。
私も一度、別な美術館で日本語のそれがあるというので、聞きながら見てみたが、私にとっては全くの雑音以外の何物でもなかった。
「絵を見る,という事はそういう事ではないはずだ。」と、この事を考えると私はいつもつい必要以上にいきどおってしまう。
遠くからはるばるやって来て、有名な絵をなるべくたくさん眼におさめておきたい,という気持ちは当然ではあるが、もし気に入った絵があったらば、少なくとも五分間はその絵の前で立ち止まってみて欲しいものだと思う。
で、ここが大事なところなのだが、出来るだけ無心に、物を考えないで、考え事を捨てて絵を見て欲しいのである。
作者や時代背景についての知識やその絵の見所などを知っていると、より絵を楽しめるというのもその通りではあるが、絵というのは基本的に人間が心を込めて作り上げたものだから、なるべく澄んだ心で対面していただきたいと私は思うのだ。
ただ、この無心というのが結構むつかしい、というのも、良い絵を見ていると必ずいろんな思いや疑問がわいてくるものだから。
それらに囚われる事無く、振り捨て振り捨てして無心を保つのは簡単な事ではない。
あえて言えば一種のメディテーションと考えて、それなりの努力や熟練が必要なのかもしれない。
そしてやはり多くのメディテーションと同じように、何ものも期待する事無くひたすらこの行いを繰り返していると、ある時突然至福の瞬間が訪れたりするものなのである。
美術史美術館の様々な名作と私にとっての最初のそういう経験は、確か1993年だったと記憶している。
こちらでは日本のように、カレンダーは無料でいろんな店からサービスとしていただくものではない。
それゆえ、毎年の年の瀬には来年のカレンダーを購入するのが我が家の習わしになっていて、この年は美術史美術館のミュージアムショップで買った、ピーターブリューゲルの大型の図版が二ヶ月ごとについたカレンダーだった。
ピーターブリューゲルはこの美術館の数有る目玉商品の一つだ。
彼は言うまでもなく十六世紀の北方ルネッサンスを代表する巨匠で、この美術館には誰もがどこかで一度は見た事のある有名な彼の作品が数多く収蔵されている。
私達が購入したカレンダーは我が家の台所の壁にかけられ、毎食ごとに私はカレンダーの絵を眺めるようになった。
一月と二月の絵は、昔から私も大好きだった「冬の狩人」であった。
ブリューゲルの最も有名な絵と言って良いのではないだろうか。
毎日毎日ご飯を食べながらぼんやり眺めていて、やがて私は一つの疑問に捕らえられてしまった。
「この絵は何故こんなに美しいのだろう?」
色や構図、技法について色々考えてみたが当然のごとく決定的な回答など得られない。
だからと言って、取り立てて本や何かで調べたりする事も無く、その疑問を宙ぶらりんにしたまま私は相変わらずぼんやりと毎日眺めていた。
随分長いことそうやって眺め暮らしていたように記憶している。
そして一体いつ頃なのか全く憶えてないのだが、ある時唐突に、「これは『神』だ、ここには『神』がいる、だからこの絵はこんなに美しいのだ!」という考えが私の内側にやって来た。
その瞬間、まるで長い間喉につかえていた魚の小骨がやっと取れたような爽快感を、私は味わう事が出来たのだった。
ここら辺の事は読んで下さっている方にきちんと説明しなければいけないのだが、あの瞬間に私の脳裏に展開した一つの観念を文章でどう説明してもその同じものではないし、爽快感とも無縁だと思う。
凍てつく冬の夕暮れ時,間違いなく気温は零下であろう。マイナス10度ぐらいかもしれない。
乏しい獲物に犬達まで肩を落としたような狩人の一群が村への帰り道を急いでいる。
左端の看板のある建物は旅籠で、家の前で豚の丸焼きをやっているのだそうだ。
氷の張った池の上で大勢の人達が遊んでいる。
そして小さな村々が点在する平野と険しい山並みが遠景の地平線まで続いている。
実はこの風景は実景ではなく、ブリューゲルが郷里のフランドルの風景とイタリア旅行の時に通過したアルプス山脈の風景を合成して作ったものだそうだが、見ていると冬の自然の厳しさとそこに暮らす人間の暖かさがない交ぜになった奇妙な,しかし快い感覚に捕われる。
この絵に描かれたすべて、自然と人間,それらすべてをあわせたものがブリューゲルにとって一つの「神」なのだ。「神」とは「宇宙」のこと、とも言っていいのかもしれない。
厳しいけれど暖かい、そういうまるで「厳父の愛」の様な『神の愛」のある側面を、この冬の景色は表現している。あの瞬間、私にはそう感じられたのだと思う。
ごくたまにあるこういう瞬間が、私に無心に絵を見る事の大切さを教えてくれる。
Kenwan
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